東京高等裁判所 昭和37年(う)1806号 判決 1963年7月09日
控訴人 被告人 島崎貞家 外一三名
弁護人 桝田光 外二名
検察官 平山長
主文
原判決中被告人吉野泰に関する部分を全部破棄する。
被告人吉野泰を懲役八月に処する。
但し、本裁判確定の日から参年間右刑の執行を猶予する。
その余の被告人らの本件各控訴を棄却する。
訴訟費用中原審証人斎藤勇輔に支給分は被告人吉野泰と原審及び当審相被告人井上君治、同立河九重、同山岡憲一、同高橋沖右衛門、同西村秀吉、同大室政右、同石井源助、原審相被告人甘利英一、同小島要蔵、同大貫福次郎、同小塚博との連帯負担、原審証人吉野文雄に支給分は被告人吉野泰の単独負担、当審証人斎藤勇輔に支給分は被告人石井源助、同山岡憲一、同高橋沖右衛門、同西村秀吉、同井上君治、同大室政右、同吉野泰の連帯負担、当審証人小山利久に支給分は被告人芳須緑、同荒田重之、同須崎由太郎、同秋本康嘉、同立河九重の連帯負担とする。
理由
本件各控訴の趣意は、被告人島崎、同山下、同芳須、同荒田、同須崎、同秋本、同石井、同西村、同井上、同大室、同吉野、同立河の各弁護人井出甲子太郎及び同館孫蔵連名提出の控訴趣意書、被告人山岡の弁護人桝田光及び同正木亮各提出の控訴趣意書、被告人高橋の弁護人小町愈一及び同高橋一成連名提出の控訴趣意書にそれぞれ記載されたとおりであるから、ここにこれを引用し、これに対し次のように判断する。
弁護人井出甲子太郎及び同館孫蔵の控訴趣意第一点ないし第十一点及び第十三点について。
原判決の判示第三、第四、第六、第七の(一)、(二)、第八の(一)、(二)、第十一、第十二、第十六、第十七、第十八、第十九の(一)、(二)、第二十一の各犯罪事実は、それぞれこれらに対応する原判決挙示の証拠を総合すれば充分にこれを認定することができ、記録を精査検討し、当審における事実取調の結果に徴しても、原審が必要な審理を尽さず、採証法則に違反して、事実を誤認したとは断ぜられない。論旨は理由がない。
右弁護人らの控訴趣意第十二点について。
被告人吉野泰に関する原判示犯罪事実第十九の(一)及び(二)に対応する原判決挙示の証拠によれば、同被告人は、原判示選挙に際し、昭和三十五年十一月初旬頃原判示候補者細田義安の選挙運動者斎藤勇輔から、同人が右判示(一)記載の趣旨で供与するものであることの情を知りながら現金十万円の供与を受けたこと、同月上旬頃吉野文雄を介して吉野英一に対し、右判示(二)記載の趣旨で、さきに斎藤から供与を受けた右の現金十万円をそのまま供与したこと、同月中旬頃右吉野英一から、原判示選挙の選挙運動に使用すべき趣旨をもつて、右の現金十万円とは同一性のない別の現金二万円を受け取り、うち金一万四千三百円を費消し、残金五千七百円をその頃同人に返却したこと、右費消額一万四千三百円のうち金一万一千五百円は右選挙運動のための実費に使用されているが、金二千八百円は、さきに同年十月下旬頃同被告人が吉野七郎及び志賀惣吉と共に選挙運動の骨休めのため料理店で飲食した時に同被告人の所持金から支払つた飲食代の補填に充てられていること、をそれぞれ認定することができる。
以上の経過によれば、同被告人は斎藤から収受した利益(金十万円)を、同人から供与された趣旨に従つて更に吉野英一に供与し、右利益は吉野の所持に移転したことになるのであるから、後の受供与者吉野から右利益を没収し若しくはその価額を追徴すべきか否かは格別、前の受供与者たる同被告人から右利益を没収することができない状態に至つたものとしてその価額を追徴すべきものでないことは言うを俟たず(昭和三十一年二月二十九日東京高等裁判所判決、高等裁判所刑事裁判特報三巻七号三〇一頁参照)、しかも前記飲食代の補填金二千八百円は、同被告人が斎藤から供与を受け更に吉野英一に供与した現金十万円、即ち同被告人の収受した利益から出捐されているのではなく、それとは全く別個の現金二万円から出損されているのであるから、同被告人が斎藤から収受した利益の価額が右二千八百円を飲食者三名に平分した一人前九百三十円の限度において同被告人に還元されて残存しているものとは認め難く、従つて右金九百三十円を同被告人の収受した利益の価額として同被告人から追徴することもできないものと解すべきである。
然らば、被告人吉野に対し右金額の追徴を言い渡した原判決は公職選挙法第二百二十四条の解釈適用を誤まつたものというべく、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決中同被告人に関する部分は全部破棄を免がれない。論旨は理由がある。
弁護人正木亮の控訴趣意第一、二点並びに同桝田光の控訴趣意第一点について。
原判決の判示第十三の犯罪事実は、これに対応する原判決挙示の証拠を総合すれば充分にこれを認定することができ、記録を精査検討し、当審における事実取調の結果に徴しても、原判決挙示にかかる被告人山岡憲一の検察官に対する供述調書につき、その供述の特信性を疑うに足りる形跡を認め難く、また原審が必要な審理を尽さず、採証法則に違反して、事実を誤認したとは断ぜられない。各論旨は理由がない。
弁護人桝田光の控訴趣意第二点の(一)、(二)について。
原判決の判示第十三の犯罪事実に対応する原判決挙示の証拠によれば、被告人山岡憲一は、原判示選挙に際し、昭和三十五年十一月上旬頃原判示候補者細田義安の選挙運動者斎藤勇輔から、同人が右判示記載の趣旨で供与するものであることの情を知りながら現金五万円の供与を受けたこと、そして右金員は、右候補者のためにする選挙運動の費用並びに報酬等として無条件に同被告人に供与され、その自由処分に委ねられたこと、をそれぞれ認めることができる。
然らば、論旨主張の如く、たとえ同被告人が右供与を受けた金員そのものの一部若しくはそれに相当する額の金員を後日供与者に返還したとしても、さきに供与を受けた金員の全額につき公職選挙法第二百二十一条第一項第四号の金銭受供与罪が成立すべく、後日返還した分を控除した残額に限り同罪が成立すると解すべきものでないことは多言を要せず(昭和三年二月三日大審院判決・大審院刑事判例集七巻一号四二頁参照)、また同条同項の受供与者が供与を受けた金員そのものの全部若しくは一部を供与者に返還した場合は格別、これを自ら費消した以上はその後これと同額の金員を供与者に返還したからといつて、この返還部分につき同法第二百二十四条による追徴を免がれ得るものではなく(昭和二十九年八月二十四日最高裁判所第三小法廷判決・最高裁判所刑事判例集八巻八号一四四〇頁参照)、前掲証拠によれば、同被告人は斎藤勇輔から供与を受けた本件の現金五万円を自己の手持金と混同して全額費消(内金一万円は選挙事務所の必要経費として鴨居田博に交付)した後本件について捜査が開始されるに及び昭和三十六年二月一日斎藤勇輔に対し金四万円(受供与金額五万円から右一万円を控訴したものの相当額)を返還しているのであつて、右金四万円が本件の受供与金員そのものの一部であるとは認められないのであるから、原判決が金五万円の全額について受供与罪の成立を認定し、且つ収受した利益の価額を金四万円と算定し、これを追徴する旨言い渡したのは洵に相当であり、何ら所論の如き違法はない。論旨は理由がない。
弁護人正木亮及び同桝田光の各控訴趣意第三点について。
所論にかんがみ、記録を精査し、これに現われている本件犯行の動機、罪質、態様、供与を受けた金員の額並びに被告人山岡の年令、境遇、経歴、その他一切の事情を総合して考察すると、各所論摘録の同被告人に有利な事情を充分に斟酌しても、原判決の量刑は決して重きに失し不当であるとは断じ難く、この程度の科刑はやむを得ないものといわなければならない。各論旨は理由がない。
弁護人小町愈一及び同高橋一成の控訴趣意について。
原判決の判示第十四の犯罪事実は、これに対応する原判決挙示の証拠を総合すれば充分にこれを認定することができ、記録を精査検討し、当審における事実取調の結果に徴しても原判決挙示にかかる被告人高橋沖右衛門の検察官に対する各供述調書につき、その供述の任意性及び特信性を疑うに足りる形跡を認め難く、また原審が必要な審理を尽さず、採証法則に違反して事実を誤認したとは断ぜられない。
しかして、右判示事実に対応する原判決挙示の証拠によれば、被告人高橋沖右衛門は、原判示選挙の終了後である昭和三十五年十一月下旬頃原判示候補者細田義安の選挙運動者であつた斎藤勇輔及び池田作馬等から現金十万円を受け取つたこと、右現金十万円中には、同被告人が右選挙期間中に右候補者の選挙運動のため立て替えた費用の弁償金が一部含まれていたことを窺がい得るが、それと共に同被告人が右選挙期間中に右候補者のため選挙運動をしたことに対する報酬もまた含まれていたこと、右十万円のうち幾何が選挙運動費用の立替弁償金で、幾何が選挙運動の報酬であるのか、両者の割合が劃然指示されることなく、両者を不可分的に一括して授受されたこと、当時においては選挙運動費用の立替金の金額は未だ確定されておらず、従つて、この授受された立替弁償金が何れの項目の立替費用に照応するものであるかさえ判然としていなかつたこと、しかし、同被告人は、斎藤らが、右十万円中に前記運動報酬をも含めた趣旨でこれを供与するものであることの情を知りながら該金員の供与を受けたこと、をそれぞれ認めることができる。
然らば、たとえ論旨主張の如く、同被告人の立替にかかる選挙運動費用が悉く合法的費用であり、後日精算をしてみればその立替金の金額が右授受の当時仮りに金十万円を超えていたことが明らかに成つたとしても、本件の如く、選挙運動者が違法な運動報酬と、そうでない合法的な選挙運動の立替弁償金とを一括して供与を受けた場合において、その両者の区分が明らかでないときは、その金員全部について公職選挙法第二百二十一条第一項第四号の受供与罪が成立すると解すべきであり(昭和三十年五月十日最高裁判所第三小法廷判決、最高裁判所刑事判例集九巻六号一〇〇六頁参照)、かように、その両者の区分が明らかでないため、その金員の全部について右受供与罪が成立すると解される以上は、その金員全部が不法性を帯ぶべきものであるから、裁判所が同罪の成立を認定するに当つては、違法な運動報酬以外の金員、本件に就いていえば、被告人高橋が弁償を受け得べき立替金の数額及び内容を成す具体的項目を審理し確定することを要せず(昭和八年十一月二十九日大審院判決・大審院刑事判例集一二巻二三号二一五四頁参照)、しかも、いやしくも選挙運動者が違法な運動報酬とそうでない合法的な選挙運動費用の立替弁償金とを不可分的に包括する金員を供与され、その趣旨を諒知してこれを収受した以上は、その金員全部につき直ちに右受供与罪が成立するのであるから、後日精算の結果右立替金の金額が右収受金員の全額を超えていることが明らかとなり、そのため受供与者の収受すべき利益、即ち運動報酬となるべき分を生ずる余地がなくなつたとしても、これがため金員授受の当時に遡つて同罪の罪責を免がれ得ないことは多言を要しないから(昭和七年九月十六日大審院判決・大審院刑事判例集一一巻一七号一三二七頁参照)、原判決には所論の如き違法は全く存しない。論旨は理由がない。
よつて、刑事訴訟法第三百八十条、第三百九十七条第一項により、原判決中被告人吉野泰に関する部分を全部破棄し、同法第四百条但書により当裁判所において次のとおり自判すべく、同法第三百九十六条により、その余の被告人らの本件各控訴を棄却すべきものとする。
被告人吉野泰につき原判決が適法に確定した事実に法律を適用すると、被告人の判示第十九の(一)の所為は昭和三十七年法律第一一二号公職選挙法等の一部を改正する法律による改正前の公職選挙法第二百二十一条第一項第四号、第一号に、同(二)の所為は同条同項第一号にそれぞれ該当し、各所定刑中罰金の額については罰金等臨時措置法第三条第一項を適用すべく、以上は刑法第四十五条前段の併合罪であり且つ各所定刑中懲役刑を選択して処断し、同法第四十七条本文、第十条により情状が重いと認められる(二)の供与罪の所定刑期に併合罪の加重をした刑期の範囲内において被告人を懲役八月に処し、なお情状刑の執行を猶予するのを担当と認めるから、同法第二十五条第一項により本裁判確定の日から参年間右の刑の執行を猶予すべきものとする。
そこで訴訟費用の負担につき、被告人ら全員に対し刑事訴訟法第百八十一条第一項本文、第百八十二条を適用して主文末項記載のとおり定め、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 坂間孝司 裁判官 栗田正 裁判官 赤塔政夫)
弁護人井出甲子太郎外一名の控訴趣意第一二点
原判決は追徴し得ない価額を追徴した違法がある。
一、原判決は、被告人吉野泰に対し公職選挙法第二二四条を適用して金九三〇円を追徴する言渡をしている。而して公職選挙法第二二四条によれば、法第二二一条から二二三条の二の場合において収受し又は交付を受けた利益のうち、その全部又は一部を没収することができないときは、その価額を追徴することを定めているのであるから、被告人吉野泰に対して追徴の言渡をするためには、先づ第一に同人が、法第二二一条乃至二二三条の二の所為に出て且つ利益を得ていなければならないし、又第二には、その所為が法第二二一条乃至二二三条の二に該当するものとして公訴を提起され有罪の認定を得ていなければならないことは当然である。
二、そこで被告人に対する公訴事実を検討すると、原判示の如く、昭和三五年一一月初旬斎藤勇輔から細田候補の投票取纒等の選挙運動の費用並びに報酬として金一〇万円の供与を受けた事実、右候補に当選を得しめる目的をもつて同月上旬吉野英一に対し投票取纒等の選挙運動を依頼し、その費用並びに報酬として金一〇万円を供与したという事実であるが、この公訴事実については、原審公判審理の結果、被告人吉野泰は、斎藤勇輔から供与された金員をその儘、吉野英一に供与したものであることが認められ、原判決もその事実を認めて判示の如き認定をしたものである。従つて原判決認定に係る事実の上からは、被告人は何等の利益を得ていないのであるから、被告人に対しては追徴の言渡をなし得ないものと言わなければならない。
三、唯被告人は、被告人が吉野英一に供与した金一〇万円のうちから、当時選挙運動の実費として金二万円を受取り、これを選挙運動の実費に費消し、尚その二万円のうちから、一〇月二四日被告人が吉野七郎、志賀惣吉と共に飲食した費用二八〇〇円を支出した事実があり、このために原審立会検察官もその論告において、被告人吉野泰から、金二八〇〇円を追徴すべきが相当であるとの意見を述べているが、然し被告人が吉野英一から受領した金二万円については、法二二一条乃至二二三条の二の罪として公訴が提起されていない。従つて仮に右二八〇〇円が被告人の利益であるとしても、追徴し得ないことは論を俟たないところである。
四、而して原審公判記録を精査しても、原判決認定に係る第一九の(一)(二)の事実に関し、被告人が金九三〇円の利益を得たと認むるに足る何等の証拠もないのである。そうすると結局原判決は追徴の言渡をなし得ない価額について追徴を言渡した違法があるものである。
弁護人小町愈一外一名の控訴趣意
第一、被告人高橋が、斎藤から交付を受けた現金十万円は報酬ではない。
一、原判決は、右十万円をもつて「被告人が右候補(細田候補)の選挙運動のため立替えた費用並に選挙運動をしたことの報酬等として」供与を受けたものであると認定し、右十万円のうち幾額が報酬であるというのか明らかではないが、何れにせよ、右十万円の中に報酬を含むものとして供与し、又供与を受けたと認定しているが、この点においてまず事実の誤認がある。何故ならば、右十万円は精算によつて、全部細田のための支出に充てられ、被告人自身においては、何等の利得をしたものはないからである。利得なくして報酬ということは到底考えられないのである。被告人に何等の報酬となるべき利得もないことは以下に述べるとおりである。即ち、被告人高橋が、細田義安のために支出した金員の合計は、一〇万六一四〇円もあつて、その明細は、後記一覧表記載のとおりである。この事実は、証拠上まことに明らかである。之を要するに、原判決が如何に理由不備、審理不尽であつたかは次の二点に明らかである。(イ)原判決の認定した事実によれば「被告人は……斎藤勇輔等から同人等が被告人が右候補の選挙運動のため立替えた費用並びに選挙運動をしたことの報酬として現金十万円の供与を受け」たと認定している。すなわち、原判決も被告が支出した選挙運動のための立替金の存在することを認め、右十万円の金員の中一部は、此の立替金に充当したことを認めている。そして、その幾何を立替金と認めたかは、原判決文からは明らかではないが、主文に追徴金三万五千二十円を掲げているところから察して、この金員を十万円から差引いた金六万四千九百八十円が立替金なりと認定したものと思われる(判然かく認定しないことは原判決の理由不備と言わねばならない)、そうだとしても此の立替金は後記一覧表の支出の中のどの部分の金員なのか全く判文上不明である。冠婚葬祭の花輪代が細田に対する立替金にならないというのか、細田の後援会の打合せの費用が立替金とならないというのか判然しない、全く理由不備の判決である。(ロ)又、弁護人は原判決通りとすれば、十万円は一度に貰つたものであるのに此の一回の金員の授受の際一部は立替金の支払として、一部は選挙運動の報酬として授受する旨の明確なる二個の意思表示(前者は債務の弁済行為であり、後者は報酬という贈与契約の履行行為である)があつたということになり、すこぶる危険な意思解釈であると思う。それならその時立替金はいくらと言う精算がついていなければ此の二個の性質の異る意思表示は同時に成立する余地がない。何んとなれば、此の精算がついていなければ、右の意思表示の内容は、当時立替金の明細、否、その存否すら不明であつて、唯幾何かは立替金(若しあれば)の弁済である、幾何かは報酬であるという莫然たる意思表示なりしということになり、立替金が十万円を超過すれば、報酬は存在せず、立替金が一円もなければ皆報酬になるという結果となり、そのことは後日判明することであつて、金員授受のときは、性質不明の金員が他日の精算を期して判明するという条件附の且つ目的不確定の金員の授受であつて、選挙運動の報酬金(一部としても)と言う色彩をもつた金員は未だ存在しなかつたということに帰着せざるを得ない。而して後日精算してみれば立替金が十万円を超過しており(又当然超過すべき関係にあつたもの)従つてこの結果授受の当初に遡り、報酬としての色彩は遂に現われなかつたと言わざるを得ないことになるのである。原判決は、この当事者(斎藤と被告人)、の金員授受の際の効果意思(意思表示の内容)を分析しない極めてずさんな認定であると言わざるを得ない。
二、右の控訴理由を更に詳細に記録に則して論ずると次のとおりである。まず、被告人高橋が、細田のために右支出を為した経緯であるが、(イ)被告人高橋は、先祖代々現住所に居を構え、農地数町歩、外宅地等を所有して農業及び公衆浴場の経営にあたり、武蔵野市境においては、有数な資産家にして経済的に余裕もあり、他方十年位前から武蔵野農業委員会の委員である公職についていたものであるが、細田氏とは、同氏が東京都の財務局長時代からの知り合いで、その後農業委員等の関係から親しく懇意に交際をして来たものである。(ロ)かような関係から、昭和三十五年正月頃武蔵野地区に於て当時代議士であつた細田氏の後援会が結成されるに至り、被告人高橋は、その副会長となつたものであるが、右後援会の会長となつた井野善太郎が老令なことと、公私多忙なることから実際には被告人高橋が一切その世話役をやつていたものである。(ハ)その後、同年の四、五月頃から被告人高橋は、細田のために武蔵野地区の主として後援会会員の冠婚葬祭に際し、花輪等を贈り、これが代金の支払をなして来たのである。この点について、原審証人井野善太郎の証人調書記載によれば、初め、武蔵野地区細田後援会会長である井野が、細田の奥さんより「武蔵野地区の冠婚葬祭に際し、細田のために花輪を贈つて貰い度い」旨の依頼を受け、その際現金二万円と共に帳簿一冊(原審弁護人提出の証第十七号証、この帳簿が細田氏の所有であつたことは、帳簿の表紙にある東京都職員信用組合と印刷してあり、細田が東京都総務局長、財務局長時代に入手したものなることが明らかである)の交付を受け、それに支出の明細を明らかにして貰いたいということであつた。そこで、井野は自分で二回程花輪を贈つて、右二万円から四千円を支出したが、老令ではあるし、面倒でもあるので同年五月頃被告人高橋に頼むことにして、右残金一万六千円と右帳簿一冊を被告人高橋に渡して、細田の奥さんからの依頼を引継いだものである。その際井野から「もし、この金で不足するときは、立替えておき後で請求すればいい」という趣旨も引継いだもので、それ以来被告人において後記一覧表記載の如くこれが支出をなして来たものである。(ニ)次に、後援会の会合費の支出であるが、この会合は、昭和三十五年一月と、七月の二回吉祥寺の清鳳閣において開催されたのであるが、一月はともかく七月の際には会費二〇〇円を徴収したが、結局、案内通知印刷代や、会合席料等計二万九千壱百六十円の不足を生じたのである。そこで被告人高橋は右後援会の副会長としてその世話役をし、かつ又その会計も担当していた関係で、この不足分を支払つたが、この不足分は、本来細田氏の方で支払うという了解を得ていたものであるからこれが立替支出なることは明らかである。ただ、ここでこの支出が或いは饗応接待の違法なる立替支出であると疑われるやも知れないのでこの点然らざることを明かにしておくが、この後援会の目的は、当時代議士であつた細田氏の国会における政治活動を後援するために組織されたもので、これが選挙に際しては一つの母体となることは今日周知の事柄である。而して後援会の運営が、原則として会員の会費によるものであるが、その幾分かは被後援者において負担することも、当然のこととされている。これ即ち社交上の儀礼である。原審証人井野善太郎、同小美濃文太郎の証人調書記載によれば、清鳳閣という料理屋でなされたが、そこでいわゆる一席設けて宴会を開いたのではなく、ただ席を借りるに好都合で席を借りたというに過ぎず、又そこでビール一本位とオツマミ若干程度出ているが、これをもつて御馳走というには程遠く、会員が、会費を持ち寄つてお茶代りとしたというに過ぎない程度のものである。(ホ)次に、選挙費用の支出であるが、すべて選挙運動に関し、その実費の入用なることは当然のことであるが、この実費に関し、当初選挙本部では、各地区において立替えてもらうという方針であつたこと、及び、被告人自身においても手許に選挙費用を立替える位の金はポケツトにあり、又立替えたからといつて、当座何にも困ることもないし、更に又、後援会会長井野からは「あんたは金があるんだから立替えておけ、選挙が終つたら領収書をもつて然るべく請求したらいい」と厳重に注意を受けていたので、本件十万円の交付を受けるまでは、自己の金員をもつてこれが立替支出を為し、本件十万円受領後は、それにより支払がなされたのである。この立替支出の中で、スシ四十人分、酒二升分、ツマミ千円程度合計 円が饗応接待の違法な支出でないことはいうまでもない。即ち、十一月五日武蔵野市境駅前の明治菓子店に移動事務所が来て、被告人高橋方を控所としたため、数十人の選挙運動者が入れ替り立ち替り出入し、たまたま晩茶の時間でもあつたので、おしのぎとして準備したに過ぎないのであつて、かようなことは何にも選挙に限らず日常社交上の儀礼として普通に行われている慣行でその違法性は全くないものである。
三、右の如く、とにも角にも被告人高橋は、結局総計において、十万六千百四十円の自己支出をなしておるのであつて、この支出につき、其の後(選挙後)斎藤から交付を受けた現金十万円がこの弁済に充てられたことは理の当然であつて、此の間疑の眼をもつて見るべき何物もないのである。してみると、被告人には報酬となるべき利得は全然ないのであるから本件十万円の全部はおろか、その一部についても、客観的に報酬となるべき金員が存在しないといわなければならないのである。即ち客観的に罪となるべき事実は存在しないといわなければならない。
第二、本件十万円は、報酬として供与されたものではない。この点、原判決は「……斎藤等が……報酬等として供与するものである……」と認定しておるが、この点に事実の誤認がある。即ち、斎藤が被告人高橋に現金十万円を交付したのは被告人高橋が既に立替支出した選挙費用等の立替金の支払と未精算の費用に充てるための概算払(仮払)として渡したものである。この点証拠によると、斎藤の検察官調書(1/12付)には「武蔵野は実費は五、六千円でその領収書をもらい実際十万円渡したので実費以外はお礼としてくれたのです。」と供述し、十万円のうち、九万四、五千円はお礼の趣旨である旨を供述している。又被告人の検察官調書(1/17)にも「十万円は、私が立替えた費用約四、五万を含めて、運動したお礼として持つてこられたと感じた」と供述し、何れもその額は違うが、お礼の意味がある旨を供述しているのであるが、原審証人斎藤の証言によると「お礼などというつもりは全然ありません」といつて強く否認しており、渡す際には「選挙で色々立替もあつて、十万円では少ないが、とつて下さい」といつて渡したというのである。被告人自身も又原審ではこれを強く否認しているのである。そこで、これを検討するに、原審証人斎藤、同小山、同細田の各証言を綜合すると、斎藤が、府中、三鷹、調布、武蔵野等の各地区に五万ないし十万円を持参したのであるが、これは、当初本部における選挙費用の立替方針が小山の提案によつて、細田フサとの間で選挙実費は各地区に届けることに決め、各地区に選挙移動事務所が行く二、三日前に届けることにして、小山の担当地区に届けたのであるが、このことを中島から聞知した斎藤も、細田フサより金員の交付を受けて前記地区に交付したものである。
そこで、右交付が概算払なることは次の事実により明らかである。(イ)選挙区全域にわたつて短期間で、かつ、集中的に選挙運動がなされるに際し、一つ一つ、その都度領収書を得て精算払と為すことは甚だ困難であること。(ロ)現実に、その地区において選挙費用が何時いくらかかるかは、正確には支出してみなければ分らないことである。例えば、被告人高橋の支出した電話料等その都度計算は不可能である。(ハ)選挙実費を各地区責任者に立替払をしてもらうことは、選挙運動の志気にも悪影響があること。(ニ)各地区の町の大小を一応の配分基準としており、かつ、その数額が、五万とか十万とかで端数がついていないことは要するに概算払の証左であつて敢え不思議なことではない。(ホ)細田フサの検察官調書(12/21付)十二項では「小山さんも中島さんも概算払ということを言つていた」旨を供述している。(ヘ)斎藤本人は、被告人高橋が既に相当多額の金を立替えて支出していることを十分承知していたものである。即ち、斎藤は、最初十一月五日武蔵境駅前に移動事務所が来る二、三日前細田フサから預つた十万円を被告人高橋宅に持参したが、被告人高橋から「立替えておくから何れ後で」といつてその受領を断り、その後再び持参したが、その受領も断つている。断つた理由については後述するが、これは、被告人高橋において選挙運動の報酬を貰うなどの意思がないからこそ立替えておくということで受領を拒絶しているのである。してみると、斎藤は、原審で同人が証言するように「これでは少ないと思つたが、十万円受取つてくれ」というのが真実であつて、それは「十万円で精算してみてくれ」という趣旨のもとに渡されたものといわなければならない。従つて、本件十万円は報酬として供与されたものではないのである。
第三、被告人高橋は、本件十万円を報酬等として供与されるものであるという認識は全くない。この点原判決は「被告人は……報酬等として供与するものであることの情を知りながら……」と認定している。しかしながら次の事実によつて、これが誤りなることは明らかである。(イ)被告人高橋は、選挙期間中における金銭の授受は、できるだけ避けて、過ちのないように慎重を期し、それには、すべて自分で立替えておくに不如とした。(このことは、斎藤が被告人に選挙費用を二度も持参したが、何れもこれを拒絶した理由である)(ロ)ところが、選挙が終つて二三日後、斎藤が本件十万円を再び持参して来たので被告人も遂にこれを受取つた次第であるが、この際被告人が受領したのは、既に選挙も終り、細田のためには先に述べたように相当多額の立替支出をなしていたが、しかし未だ精算はなされていなかつたので被告人としては、果してどの位立替えたものか判つきりせず、ただ相当の額は立替えておるという認識の状態であつた。更に又、選挙に使用した電話料等も未だはつきりしていないが、何れは支払わなければならないものであるし、斎藤は既に三回も来て「取敢えずこれだけ受取つてくれ」といわれるままに受領したのである。これ即ち、精算するために受領したのである。(ハ)ところが、精算した結果は、後記一覧表記載のとおり、本件十万円受領当時は、金七万六千四百円の立替支出しかなかつたのであるが、その後も引続いて細田のためには支出しているのである。(ニ)他方被告人は、先きに述べたように旧家でかつ資産家である。又公務員でもあり、細田とは極めて懇意な間柄である。従つてかかる少額の金をもつて、家の名誉も、公務員の地位もすべてを忘れて、買収を受けるという馬鹿気たことをする筈がないのである。以上の事実によつてみれば、被告人高橋が本件十万円を受取るに際し、これを報酬として供与を受けたとは到底考えられないし、又仮りに持参して来た斎藤に報酬とする目的があつたとしても被告人は全くこれを知るに由はないのである。
第四、以上原判決は、三点において事実の誤認があるが、原判決がかかる誤認をした理由は何か、それは原審裁判所が、被告人及び斎藤勇輔の検察官調書を吟味することなくたやすくこれを信用したということである。そこで、最後に被告人の検察官調書(三通)を検討してみると、成る程調書は(1) 選挙費用の立替残はお礼である。(2) 冠婚葬祭の花輪代及び後援会立替金は本件十万円とは別である趣旨の供述記載があるけれども、これは、被告人の原審における供述によれば、検察官の取調にあたつて、被告人は、細田氏に対して冠婚葬祭費や、後援会の立替金が相当額あつたので本件十万円はこれに充当したと主張したのであるが、捜査官はこれは弁解であるとして聞き入れず、選挙費用だけは実費として認めるが、残余はすべて報酬であるという論法で強制されたため、被告人も止むなくこれに応じて仕舞つたという次第で、これは明らかに捜査官の偏見に基く強制の結果で、その信憑力はないといわなければならない。